近江牛について ŌMI BEEF
近江牛の話
近江牛は約400年前より、将軍や大名に献上されていた歴史があります。
肉禁食の江戸時代に、彦根藩では味噌漬けにした牛肉を「反本丸(へんぽんがん)」という養生薬として定評があり、長く江戸の将軍家にも献上していました。明治に入り西洋の食文化が広まるとともに、日本国内に肉食の波が広がりました。
その際に近江牛は神戸港より横浜・東京へと運ばれましたがかつては出荷港=ブランドという構図があったため、出荷された「近江牛」が「神戸牛」として扱われていたことがあります。「神戸牛」の名前が世に知られるのにはそのような背景がありました。
近江牛の特徴
琵琶湖に代表される豊かな自然の中で育てられた近江牛は、霜降り肉であることが特徴的です。
鈴鹿山脈からの良質な水と、湖東平野に広がる肥沃な土壌という最適な環境に恵まれ、栄養バランスに配慮された飼料で育まれた肉質は霜降り度合が高く、特有の香りと肉の柔らかさが特徴で、高い評価を得ています。
肉のあさのと近江牛
肉のあさのと近江牛との関わりは明治三十年、創業者浅野弥五郎が滋賀県蒲生郡桐原村(現在の近江八幡市内)で農耕牛を扱う家畜商として独立創業した頃に始まります。
当時からこの地では琵琶湖がはぐくむ肥沃な大地で稲作が盛んで、牛が農耕に欠かせない貴重な労働力であり、農家の玄関に入った場所には必ずと言っていいほど牛の部屋があり、家族と同様、大切に飼われていました。
家畜商のなりわいは、農耕に使えるよう調教した牛を農家に供給し、牛の体調管理や飼育指導などをすることが主な仕事でした。
牛は3歳から4歳位になると体重も増え、ぬかるむ水田の土に脚を取られ農耕に適さなくなってきますので、退役させ肉牛として肥育され、入れ替えに若い牛を農家に提供します。
退役し肥育された牛は食肉として販売されることになりますが、当時でも牛肉はたいへん高価で、滋賀の田舎ではお盆と正月、田植え、稲刈り時期など節目の時にしか庶民の口には入りません。
一方首都東京では文明開化のもと、すき焼き文化が花開き、各地から牛が集まりましたが、滋賀から送られた牛の品質の良さは他を圧倒し、「上牛、江州牛」などと呼ばれ東京都民や訪日外国人に喜ばれました。敗戦後、経済復興とともに国民の食生活も改善され、牛肉の需要が大いに伸び、滋賀から東京に送られる牛も益々増加します。
同時に牛の肥育環境も大きく変わり、農業の機械化により農耕目的の飼育から食肉生産のための多頭肥育へと農家の業態も変わります。弊社の仕事も農耕牛の供給から食肉卸し業に移行。東京出荷と地元食肉店への近江牛供給に力をそそぎます。
昭和26年に滋賀の集荷業者と東京の仲買業者で「近江肉牛協会」を組織。弊社2代目浅野武雄も結成に尽力しました。
滋賀県知事を初代会長に迎え、日本で最初のブランド牛「近江牛」の宣伝、普及を推し進めることになります。このような時を経て「近江牛肉 総本家 肉のあさの 草津本店」は現在まで近江牛一筋に携わってきました。代々受け継がれてきた、牛を見る「目利き」、肉を見極める「目利き」を何より大切にして近江牛をお客様にお渡ししています。